スクリーンの向こうの幻想

最近のコラ画像ってすごいよね。

 

突然なにを言い始めるとおもったらなんだそんな使い古された話かよってね、はい、申し開くことはございません。

まずは昨日は諸々ありまして更新できませんでしたと弁解しておきます。もっとも最初から毎日更新するつもりではないのですが…

 

 

さて、コラ画像の話。

特に私自身コラ画像を作っているとかコラ画像でなにか悪質な嫌がらせを受けたことがあるとかそんなわけではない。ただ、某SNSサイトに出回っていた自粛中の東京に関するコラ画像とその制作過程の動画をみてなんて精巧に作られてんだ!ってびっくりしたってだけなのだが、日常にあふれる画像や動画で誰でもかんたんに嘘をつける時代がすでに来てしまっていると危機感を感じたのだ。

尤も、随分前からそのようなことは容易にできたのであろうが、素人が使えるような道具で遊び半分の感覚であんなに精巧なだまし絵を作れるとなると写真や画像への信頼が大きく失墜してしまう。

 

こんな弱小ブログが取り上げるまでもなくこのようなフェイク画像やフェイク動画はすでに社会問題化している。例えば、2016年に発生した熊本地震の際には「熊本の動物園からライオンが逃げた」というデマをライオンととある町並みを合成して作ったフェイク画像とともにSNSに投稿し、刑事事件の発展した。また、女優やアイドルといった芸能人の顔とポルノ動画を人工知能の技術を用いて合成した「ディープフェイク」と呼ばれるフェイク動画を作成しネット上に投稿したとして名誉毀損等で訴えられたというケースもある。このディープフェイクは海外でも社会問題化しており、中には政治目的でフェイクニュースを流すことに用いられているケースもあるそうだ。

このように、フェイク画像はいよいよ素人目からしたらなかなか見破ることができないフェーズに入ってきておりそれを好ましくない用途で用いる輩が顕在化してきた。

 

映像は、19世紀以来急速に発展してきた「視野を共有する」という形で最も直観的に理解しやすく我々の視覚に訴えかけるメディアであり、歴史の欠片となった過去の重大事件から世界中のリアルタイムの情報まで、さらには自分が生まれた瞬間や家族との心温まる時間、恋人との甘いひとときまで様々な時間、空間を切り取り再現してくれる。

映像はスクリーンや液晶を通して人々に様々な国や地域、時代への旅を可能にし、様々な人と会うことまで実現させた。もうこの世にいなくなってしまった大切な人でさえ。

それだけではない。映画にテレビドラマ、演劇、プロスポーツ動画共有サイト…映像メディアは様々な娯楽と結びついて現在の娯楽文化を根底から担っていると言っても過言ではない。

 

我々は(私も含めて)今日、当然のように大量の映像メディアに囲まれてそれを消費しながら過ごしている。液晶の向こう側にまるで映像の中の世界が広がっているかのように映像を迂闊に享受している。

しかし、映像メディアをここまで容易に捏造できてしまう今、我々は改めて肝に銘じなければならない。

 

「そのスクリーンに映し出されているものはすべて幻想であり、実体はそこにない」

 

ということを。

我々は映像を通して観たいものを観られて、行きたいところ行けて、会いたい人と頭の中で会うことができる。捏造さえすれば君の大好きなあの子に「〇〇さん、大好き」って言わせられるかもしれないし、自分と意見を異にする人間に極悪人しか口にしないような言葉を発せさせることも簡単だ。

 

しかし、それらはすべてこの世界の話ではない。

ここはコロナ禍の令和日本のとある田舎町で、そこにはひとりで黙々とパソコンに文字を打ち込んでいる私一人しかいない。思想の違う憎き敵も、礼節をわきまえた人格者だったりもする。そんな冷たくも温かいここが現実世界なのだ。

 

映像を通して容易に見かけ上物事を捻じ曲げて知覚、自分の思い通りに解釈することができるようになった。そう、信じたい画像を検索すれば簡単に見つけ出すことができるのだ。

しかし、これによって自分が正しい情報を得ることが難しくなっただけでなく、信じたい情報の誘惑の引力に抗う力もまた求められる。信じたいと思うことを観みるのではなく、観たものを正しいとするのでもない。見知ったことを統合し、総合的に判断したうえで新たな判断材料が登場すればその解釈が正しいものなのか常に試すという姿勢がもとめられる。そして最も重要なことにその吟味は冷静で批判的なものでなければならない。

 

何を信じ、何をえらぶのか。そして、何を正しいとするのか。

 

情報リテラシー以上に我々の理性と良心が問われていると感じる。