帰省

季節はゴールデンウィーク

この休みに乗じてわたしも故郷に帰ることにした。

電車での帰省。

混雑はやはり恐ろしいということでわざわざ平日の昼間の帰省だ。学生だからこそなせる技だ。

最近獲得した自動車での帰省も考えたが、まだ長距離運転には慣れていないというのと、電車の中での読書が楽しみだったから電車を選んだ。

車輌の中はがらんとしている。そんな時間帯を狙ったんだから当然といえば当然なのだが、やはり少し寂しいような。

座れるから楽でいいのだが。

私の他に2、3人を載せた特急列車が街を駆け森を越える。車窓に転々とした集落をとらえる。大学生も何年もやってるとこの帰路ももう慣れた。

暖かい春の日差しの下で小気味良いリズムに揺られながら、ページをめぐる。

これはなかなか至高の時間である。

列車はすすみ、いよいよ故郷に近づく。

少しずつ母校の制服に身を包んだ中高生たちが増えてきた。

ほんの10年ほど前まではあの中に混ざってワイワイやっていたのだと思うと親近感をもつような、両者の確かな隔たりを感じるような不思議な感じだ。

毎度この辺りを通る時、中高の頃は楽しかっただろうか振り返る。

でもだいたい答えが出ないまま通過してしまう。

まあいいやと問いを胸にしまう。

最寄駅に近づく。

ふと思い立って一つ前の駅で降りることした。

この町の風と香りがわたしを懐かせがらせる。

よく遊んだ公園。

滑り台の色ってあんな色だったっけ?

通っていた塾、小学校。

子供たちの声が聞こえる。

毎日歩いていた通学路。

畑だったはずのところが駐車場になってる。

今は都会に出て行った幼馴染の実家。

少し古くなってる。

どこもかしこも私を置いて、わたしの知らない人たちがこの町をまわしている。

「おかえり」って懐かしい声が聞こえたと思えば奥から知らない子が覗いている。そんな感じ。

「ただいま」って言えばいいのか、「お邪魔します」と言えばいいのか。

よかった。我が家は健在のようだ。

とりあえずここで一つ、「ただいま」と言おうか。

5月1週目はどう過ごそうか

今日からゴールデンウィークとのことで、

一昨年までなら多くの人々が行楽地に赴き必然的に行楽地も公共交通機関も活気づく季節になった。

去年も今年は仕方ないよね、ってあきらめたっけ。

楽しみにしていた遊園地をお父さんの仕事に台無しにされる子供の気持ちってこんなのかもしれない。

 

さて、偉い人はよくこのタイミングにゴールデンウィークというものを設置したなとこの時期には毎日感心する。

4月に始まった新生活。新生活に慣れないというより大抵の人は余計な力が入りすぎちゃう。当然ただでさえ慣れないことをさせられて体がびっくりしているというのに無駄に力んでいたら当然すぐに疲れてくる。

 

うまくやれない…新しいことはやっぱ難しい…

 

そんなころやってくるのがゴールデンウィークだ。

もちろん4月に新生活を迎えた大抵の人は5月上旬にはゴールデンウィークがあることを知っている。そんな彼ら彼女らには、たとえ慣れないことに挫けそうになってもゴールデンウィークまで頑張るんだって心の支えになるし、幸運にも新生活最高の滑り出しをできたとしたらうまくいったという高揚感と達成感とともに新たな仲間とのゴールデンウィークを、もしくは旧知の友へほくほくの土産話をもってゴールデンウィークに臨むことができるのだ。

要するに、ゴールデンウィークは「チュートリアル期間」である4月を乗り越えた人々が気持ちや疲れをリセットするのにもってこいなのだ。

 

しかし、ゴールデンウィークには別の側面もある。

それはゴールデンウィークは5月病の要因の一つであるということだ。

どんな4月を送ったにせよなかなかゴールデンウィークを上回るような4月を送ることは難しい。なんたってゴールデンウィークはゴールデンなんだから。

 

4月を一生懸命忙しく勤勉に過ごした人々ならなおさら休みに帰りたくなる。そんなころにゴールデンウィークだ。本当に甘い誘惑である。

こんな甘い生活に後ろ髪を引かれながら5月に再びもとの生活に戻るのだが、しばしばゴールデンウィークの甘さから抜け出せない人が現れる。

次の休みまで頑張れば!って思ってもあんなにあったカレンダーの赤表示は端っこに追いやられてしまって、祝祭日なんか2枚カレンダーをめくってやっと下の方に見つけられるほどだ。

4月には新しいことだらけで刺激的で疲れるけどワクワクする新生活だったのが、ゴールデンウィークを明けるとそんな日常の慣れが出てきて次第に味気ない、代わり映えのしない延々と続くように思える日常へと代わる。

 

ゴールデンウィーク明けこそが本当の新生活の幕開けなのだ。

 

それでは、5月病にならないようにするにはどうしたら良いのだろうか。

ここではゴールデンウィークの過ごし方とゴールデンウィーク明けの日々への向き合い方が鍵になると考える。

 

まず、ゴールデンウィークの過ごし方。

やはり何も考えずに弾けたいのがゴールデンウィークなので行楽地に行くのもいいし、普段会えない友人や遠縁の親戚に会うのも良い。

しかし、重要なのは後腐れないように満足するまでゴールデンウィークを楽しみ、自分の中で「いい思い出」にしてしまうことと、

4月の生活やゴールデンウィーク中の遊びで溜まってしまった疲れを癒やす時間を作ることだ。

やはり、中途半端な娯楽では後悔が残る。遊ぶときは目一杯遊んで、ゴールデンウィーク明けに「もう終わったけどみんなに教えてあげたい思い出」にしてしまうことで、この思い出はゴールデンウィーク明けの生活の原動力になる。

さらに、やはり疲れが残ったままだとその後の生活に支障をきたすので、遊びはほどほどに休息の時間をつくってあげることも肝心である。

 

次に、ゴールデンウィーク明けの生活への姿勢である。

これはその期間に限ったことではないが、日々がマンネリ化するのは今日という日をぞんざいに扱っているからなのではないかと思う。マンネリに感じる今日という日も言うまでもなくもう戻ることのないかけがえのない一日なのだ。一日一日をこのように意識せずに生活してしまうからグダグダになっちゃうのではないだろうか。

 

だからといってそんな簡単に意識なんて変えることはできないし、そもそもそんな事できていたら苦労しない。

 

そこで具体的にどうすればいいのか。

 

短い期間で毎日を区切って名前をつけていけばどうだろうか?

 

夏休みまでとか海の日までってなると途方も無い期間に思えるし実感がない。

そこで、一週間で区切り、今自分がカレンダーのどのあたりを過ごしているのかを意識して生活してみたらどうだろうか。

たとえば6月21日(53日後)と言われたら遠い未来のように感じるが、6月3週目、5月2週目から数えて6週目といわれたらどうだろう?

さらに、ゴールデンウィーク明けから次の祝日の海の日までの12週間のうちの半分といわれたらどうだろう?

ゴールデンウィーク明けから連続ドラマが始まるとしてやっと物語の本筋が動き始めるかどうかの頃っていわれたらどうだろう?

遠いような近いような未来だった「6月21日」となんとなく距離がつかめる気がしたのではないだろうか?

 

私はこんなふうにして、縮尺を自在に変えて具体的なものに落とし込んで時間との距離感をつかもうとしている。

そして、5月1週目はマスクを着けて目一杯羽根を伸ばしてゆっくりしたいと思う。そんな生活のおすそわけをここでできたらいいな。

 

 

 

断っておくが6月21日に深い意味はなくカレンダーでたまたま目に入っただけなのであしからず。

スクリーンの向こうの幻想

最近のコラ画像ってすごいよね。

 

突然なにを言い始めるとおもったらなんだそんな使い古された話かよってね、はい、申し開くことはございません。

まずは昨日は諸々ありまして更新できませんでしたと弁解しておきます。もっとも最初から毎日更新するつもりではないのですが…

 

 

さて、コラ画像の話。

特に私自身コラ画像を作っているとかコラ画像でなにか悪質な嫌がらせを受けたことがあるとかそんなわけではない。ただ、某SNSサイトに出回っていた自粛中の東京に関するコラ画像とその制作過程の動画をみてなんて精巧に作られてんだ!ってびっくりしたってだけなのだが、日常にあふれる画像や動画で誰でもかんたんに嘘をつける時代がすでに来てしまっていると危機感を感じたのだ。

尤も、随分前からそのようなことは容易にできたのであろうが、素人が使えるような道具で遊び半分の感覚であんなに精巧なだまし絵を作れるとなると写真や画像への信頼が大きく失墜してしまう。

 

こんな弱小ブログが取り上げるまでもなくこのようなフェイク画像やフェイク動画はすでに社会問題化している。例えば、2016年に発生した熊本地震の際には「熊本の動物園からライオンが逃げた」というデマをライオンととある町並みを合成して作ったフェイク画像とともにSNSに投稿し、刑事事件の発展した。また、女優やアイドルといった芸能人の顔とポルノ動画を人工知能の技術を用いて合成した「ディープフェイク」と呼ばれるフェイク動画を作成しネット上に投稿したとして名誉毀損等で訴えられたというケースもある。このディープフェイクは海外でも社会問題化しており、中には政治目的でフェイクニュースを流すことに用いられているケースもあるそうだ。

このように、フェイク画像はいよいよ素人目からしたらなかなか見破ることができないフェーズに入ってきておりそれを好ましくない用途で用いる輩が顕在化してきた。

 

映像は、19世紀以来急速に発展してきた「視野を共有する」という形で最も直観的に理解しやすく我々の視覚に訴えかけるメディアであり、歴史の欠片となった過去の重大事件から世界中のリアルタイムの情報まで、さらには自分が生まれた瞬間や家族との心温まる時間、恋人との甘いひとときまで様々な時間、空間を切り取り再現してくれる。

映像はスクリーンや液晶を通して人々に様々な国や地域、時代への旅を可能にし、様々な人と会うことまで実現させた。もうこの世にいなくなってしまった大切な人でさえ。

それだけではない。映画にテレビドラマ、演劇、プロスポーツ動画共有サイト…映像メディアは様々な娯楽と結びついて現在の娯楽文化を根底から担っていると言っても過言ではない。

 

我々は(私も含めて)今日、当然のように大量の映像メディアに囲まれてそれを消費しながら過ごしている。液晶の向こう側にまるで映像の中の世界が広がっているかのように映像を迂闊に享受している。

しかし、映像メディアをここまで容易に捏造できてしまう今、我々は改めて肝に銘じなければならない。

 

「そのスクリーンに映し出されているものはすべて幻想であり、実体はそこにない」

 

ということを。

我々は映像を通して観たいものを観られて、行きたいところ行けて、会いたい人と頭の中で会うことができる。捏造さえすれば君の大好きなあの子に「〇〇さん、大好き」って言わせられるかもしれないし、自分と意見を異にする人間に極悪人しか口にしないような言葉を発せさせることも簡単だ。

 

しかし、それらはすべてこの世界の話ではない。

ここはコロナ禍の令和日本のとある田舎町で、そこにはひとりで黙々とパソコンに文字を打ち込んでいる私一人しかいない。思想の違う憎き敵も、礼節をわきまえた人格者だったりもする。そんな冷たくも温かいここが現実世界なのだ。

 

映像を通して容易に見かけ上物事を捻じ曲げて知覚、自分の思い通りに解釈することができるようになった。そう、信じたい画像を検索すれば簡単に見つけ出すことができるのだ。

しかし、これによって自分が正しい情報を得ることが難しくなっただけでなく、信じたい情報の誘惑の引力に抗う力もまた求められる。信じたいと思うことを観みるのではなく、観たものを正しいとするのでもない。見知ったことを統合し、総合的に判断したうえで新たな判断材料が登場すればその解釈が正しいものなのか常に試すという姿勢がもとめられる。そして最も重要なことにその吟味は冷静で批判的なものでなければならない。

 

何を信じ、何をえらぶのか。そして、何を正しいとするのか。

 

情報リテラシー以上に我々の理性と良心が問われていると感じる。

限りある膨大な自粛時間の使いみち

「自粛」ということばに聞き慣れてきてから久しい。

去年の今頃は…なんてここ最近のワイドショーでは毎日流れていて、すこし食傷気味だ。

そう、去年の今頃に始まった「非日常」はとどまることを知らず、われわれの自粛生活はあんなに自粛に精を出していた流行に敏感な彼ら彼女らが漫才のオチよろしく「もういいよ」と言いたくなるほど当たり前のなんの変哲もないただの「日常」と化してしまったのだ。

 

日常ともなれば、気が緩むのも当然のことで街の自粛は一向に進まない。

新しく買った参考書と同じだ。さあ勉強するぞ!と本屋さんを出て帰りの電車でまえがきと目次を流し読んで、パラリと第一章の第1ページを開いたときがクライマックス。第2章、第3章と読み進めていくうちに徐々に失速し、興味は薄れ、気づけば鞄の中が定位置となり、最後には本棚に落ち着く。気づけば参考書の前半分にだけおびただしい数の付箋やマーカーがあるにも関わらず、最終章なんかは新品同然といった寸法だ。

こんな経験のない方はきっと速読の達人か、人智を超えた秀才の方々であろう。

 

我々の「自粛」も最初の頃はよかった。「自粛」を要請するなんて言葉としておかしい!なんて不満をこぼしながら大半の善良な市民は「おうち時間」を過ごしていた。

自粛警察なんていう私設警備隊も登場して、首都圏から田舎に行こうものなら投石に落書き、村八分なんて始末。

布製マスクをつけようものなれば「意味がない」だ「飛沫感染!」なんて騒いで不織布マスク原理主義の一派が登場したのが秋ごろのことだったっけ。

 

彼らは一体どこへ行っていしまったんだろう。

昨今話題になっている路上飲酒にはもう厳しく言わないのだろうか?

それとも私設警察から路上飲酒隊に転職してしまったのだろうか?(流行とストレスに敏感な彼らには丁度いいのかもしれないが…)

今となっては首都圏や京阪神地区で人流を抑えるためにと多くの商業施設に巻き添えを食いながら厳格な休業要請が施行されている。にもかかわらず、その人流はあの頃と比べて断じて減っておらずもはや休み損になる未来はすぐ近くにあるように思える。

 

つらつら適当に並べてみても一年でこんなにいろんなことがあったんだなと改めて思い知らされる。もちろんこれ以外にもいろんなこともあったが長いので割愛させていただく。

 

しかし、私が最も驚いたことは、

 

「私自身こんなに一年中ワイドショー見るほど暇だった。」

 

ということだ。

とにかく自粛期間は暇であり堕落と隣り合わせの期間だ。

いや、たしかに自粛期間でも有意義な時間を過ごすことはできただろう。しかし、特に昨年の、自粛素人だった私は有意義に時間を過ごすことへの意欲すら徐々に自粛してしまいベッドで過ごす日も少なくはなかったし、「あぁ私はなんて有意義に時間を過ごしているんだ」といって一日中レンタルしたマンガや映画を消費する日々もあった。

自粛生活2年目に突入した私にもあの期間が有意義だったのかそうでなかったのかわからない。あの暇をワイドショーをみることで埋めたのは、100冊をも上回るマンガを読み漁り、映画を貪るように観ていたのは堕落だったが有意義でなかったかのだろうか。

今年は昨年とは異なることがしたいと思い、学生らしく自習や読書に日々を費やし、ブログなんて新しいことを始めてみた。しかしこれは果たして有意義なのか。

 

有意義な時間とは一体何なのか。

 

ちょうどいい暇つぶしの材料が見つかったようだ。

はじめまして

中学2年生の夏、私は初めてブログとやらに手を出した。

理由はいろいろあるみんながやってるから乗り遅れたくないとか、楽しそうだからとか…

今思えば思春期真っ只中の私は自分を表現する場を新しく見つけたかったのかもしれない。

 

なんてことは、硬派を良しとして10数年育ってきたの私の苦しい言い訳だ。

 

その頃ブログを始めた本当の理由は単に、気になるあの子に誘われたからだ。

 

尊敬する先生に公開日記なんてバカバカしいって言われても、両親にばれようものならなんて言われようかとビクビクしていても、

その夜、いつもの学習塾の帰り道、あの子との帰り道、初めてブログという文化に触れてみたのは浮ついた気持ちによるものだった。

 

がしかし、

 

そこは愚かで引っ込み思案の中学生。

何を書いたらいいのか、何を書いても平気なのかがなにせわからない。

浮ついた気持ちで始めたブログだったのだがとにかく筆が進まない。なんたってクラスのみんなも、況してやあの子も見ているブログだ。余計なことは書きたくないし、面白くないことは書きたくない。

過剰な自意識で構成された耐え性のない中学生には、どこまでも上がっていくハードルを見上げるより他なく、代わりに投稿頻度は下がっていった。

 

そうして私の第一次ブログ人生は終焉を迎えた。

え?気になるあの子とはどうなったかって?

それは今始まった新たなブログ人生のどこかで触れるかもしれないからここでは控えておくことにしよう。

 

 

ここまで私の愛くるしい黒歴史を惜しげもなく明らかにしてきたのだが、わたしが今回書きたかったのはなぜ今回このブログを始めたかということだ。もっともあまりにありきたり過ぎて書くまでもないのかもしれないが辛抱してほしい。

断じて気になるあの子が・・・なんてことではない。(だからといってどうというわけではないのだが)

 

というのも、この特殊な環境、つまりはコロナ禍にちょうど1年ほど身をおいてきて、「今過ごしている日常は近い未来(と信じているが…)の非日常になるんだろうな」とふと感じることがしばしばあって、自分の言葉で今感じていることを書き記したいと思ったのだ。

ね?すっごくありきたりでしょ?

 

じゃあこんなつまんない文章を他人様にみせんじゃねーよ!近所の本屋さんでお気に入りの日記帳でも買ってきて一人で楽しんどけよ!

 

といったツッコミが聞こえてきそうなものだ。もっともだと思う。

正直、自分もなぜ日記帳に飽き足らず、ネット上で意見を表明しようと思うのかはっきりとはわからない。

 

でも、ネット上なら大声出すのに「不織布マスク」しなくていいから

 

なのかなと今は思う。それもまた変わると思う。

 

 

これからきっとこのページは気まぐれで文体もバラバラの飾り気のないらくがき帳みたいになるだろう。でも、思ったことを思ったまま思ったときにマスクなしの自由な演説を披露できたらと私は思う。